長岡京の場所と特徴
日本史によくでてくる政治の中心地・首都である京は、
- 藤原京 694年(持統8年)から710年(和銅3年)
- 平城京 710年(和銅3年) から 784 年(延暦3年)
- 長岡京 784年(延暦3年) から794年(延暦13年)
- 平安京 794年(延暦13年)から1869年(明治2年)東京遷都までの帝都
と遷都が行われました。
ここではその中でも長岡京に焦点を当てて要点をまとめていきます。
長岡京は、現在の京都府向日市、長岡京市、西京区にいたる地域に位置していました。
長岡京は784年、第50代天皇である桓武(かんむ)天皇の勅命により、奈良の都・平城京から遷都して造営された京です。
長岡京が首都として機能していたのは、
784年 – 794年
のおよそ10年間だけでした。
遷都が行われた理由とは?
74年間もの間、首都としていた平城京から、長岡京への遷都が行われたのにはいくつか理由があり、それらには
- 天皇の血筋問題
壬申の乱後、100年に渡り天武天皇系の皇族が即位していたが、天智天皇系が皇位に返り咲いたので、朝廷の権威回復を狙った。 - 水運の便
長岡京には水源となる川があり水が豊富なため - 寺院の勢力の増大
平城京で仏教の勢力が拡大してきたので政治と宗教を分離させるため
旧来の仏教勢力の排除するため
などが上げられます。
しかし、長岡京に遷った後にたくさんの災難が降りかかります。
建設の責任者である藤原種継が暗殺されてしまうのです。この首謀者として皇太子である早良親王にも疑いがかけられ、早良親王は幽閉されたのち、食べ物と水を絶たれ餓死してしまいます。(早良親王は、桓武天皇の弟です。)
早良親王が亡くなった後から、
- 日照りによる飢饉が始まりまる
- 天然痘などの疫病が大流行
- 藤原旅子(桓武の妻)の逝去
- 高野新笠(桓武の母)の逝去
- 藤原乙牟漏(桓武の正妻)の逝去
- 新しい皇太子、安殿親王(あてしんのう)が病床に伏す。
- 大雨によって川が氾濫、京に大きな被害
という災難に見舞われます。
これは、早良親王の祟りとし、怨霊を恐れた桓武天皇は、早良親王の怨念が残る長岡京を捨て、再びの遷都を決断します。
そのため、長岡京への遷都10年にして、桓武天皇は再び遷都を決めることになったのです。
桓武天皇が、長岡京から平安京へ遷都をしたのが西暦794年、現在の京都市と京都市街に位置する場所へと平安京を遷都し、現代の京都市の原型となる平安京が出来上がりました。
平安京の場所は、長岡京から北東に10㎞ほどのところです。
以上 長岡京の要点まとめでした。
簡単に言うと仏教勢力を廃絶するために平城京から長岡京に遷都したが不幸の連続と災害、怨念の恐怖から再び遷都し平安京を作った。この間10年ほどということになります。
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