江戸幕府の滅亡で幕末が終わる
第一次長州征伐とよばれる、幕府による長州藩への攻撃がはじまったのは1864年のことです。このとき、外国船を砲撃した報復にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国から攻撃された下関戦争の直後とあって、長州藩に幕府と戦うような力はなく降伏をして衝突は避けられました。そのため、幕府に監視されるようになった長州藩は、武器を調達することもできなくなってしまったのです。
尊王攘夷派である長州藩、八月十八日の政変のクーデターを起こした薩摩藩、両藩は対立関係にありましたが、土佐藩の坂本龍馬の仲介のもと、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛によって薩長同盟が結ばれたことで、イギリスと親しい関係にある薩摩藩から最新鋭の武器が長州藩へと運び込まれました。
第二次長州征伐をむかえたとき、功山寺で挙兵した高杉晋作によって長州藩が倒幕で意見をまとめたこと、最新鋭の武器を用意できたこと、たくさんのひとが身分に関係なく戦いに参加したことなどによって、長州藩は幕府に勝利することができたのです。
尊王攘夷派に追い詰められた江戸幕府は、1867年に大政奉還をおこないました。これは江戸幕府が朝廷から預かっていた政治を行う権利である「政権」を、ふたたび朝廷へ返すというものです。さらに、王政復古の大号令によってまもなく新政権が立ち上げられました。
ですが、これまで江戸幕府に忠誠を誓っていたひとたちは納得できず、新政府勢力と戦うことを選びます。こうして1868年に鳥羽・伏見の戦いがはじまり、1869年の箱館・五稜郭で旧幕府勢力が降伏するまで戦いが続きました。この旧幕府勢力と新政府勢力による戦争を、まとめて戊辰戦争とよんでいます。
まとめ
幕末には黒船の来航をきっかけに、尊王攘夷派と江戸幕府が衝突をするようになりました。それぞれの勢力のひとたちが、それぞれの思想のもとに戦った結果が、江戸幕府の滅亡と明治政府の樹立であり、近代国家への一歩が踏み出されたのだといえるでしょう。
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