国分寺・国分尼寺とは?
国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院のことです。
741年ですので、奈良時代の中期にあたります。
聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺のシンボルとして東大寺と大仏を、国分尼寺のシンボルとして法華寺を建立しました。
つまり、仏教によって国を守り、繁栄させるというのが国分寺・国分尼寺建立の基本精神です。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物でした。
大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられました。
国分寺・国分尼寺の違いは?
国分寺は男性の僧(僧侶)
国分尼寺は女性の僧(尼僧)
正式名称は、
国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)。
また、壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられました。
国分寺・国分尼寺 建造の目的
奈良時代の中ごろの国内では様々な災難に見舞われました。
- 自然災害…日照り、台風、地震の発生。そのため、飢饉(ききん)が起きました。
- 伝染病…大陸から恐ろしい伝染病である天然痘(てんねんとう)が伝わり、多くの人々が死にました。
- 外国との関係…朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の新羅国(しらぎこく)との関係が悪化しました。
- 反乱…天皇の親戚や家来たちによる反乱が起き、戦いが起きました。
上記の事柄をから国を守るために聖武天皇は以下のことを考えました。
- 聖武天皇は、乱れてしまった国を安定させるため、仏教の力を借りることにしました。
- 741年、都には東大寺を、全国およそ60か所には「国分寺」と「国分尼寺」をそれぞれ造るように命じました。
- どの国分寺にも、七重塔とお釈迦様の像を造るように命じました。
- 国分寺を建てる場所は、その国の最も良い場所を選ぶように命じました。
国分寺建立の詔
読み方:国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)
741年に聖武(しょうむ)天皇によって出された、各国に国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てる命令のことです。七重塔を建て、天皇が自分で写した経を塔の中に納めるように命じました。
詔(みことのり)というのは、御言宣、もしくは大御言(おおみこと)といわれるもので、天皇の命令や、その命令を直接に伝える文書のことをいいます。
国分寺・国分尼寺 まとめ
国分寺・国分尼寺は、聖武天皇が国を厄災から守るために国家鎮護として各地に作った寺のことです。
国分寺には男性の僧、国分尼寺には女性の僧が勤めています。国分僧寺には男性の僧20人、国分尼寺には女性の僧(尼)10人が勤めていたと言われています。
国分寺は、地方における仏教文化発信の中心地でした。
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