明治維新では近代国家になるためにさまざまな改革がおこなわれました。これは、外国の国々に対抗するために、強い力を持った近代国家になる必要があると認識したからです。
このような改革が進められるなか、旧幕府勢力と新政府勢力が衝突した戊辰戦争が起こります。旧幕府勢力が箱館の五稜郭で降伏したことで終息をむかえました。
明治維新とは明治政府につながる新政府が誕生した1868年の王政復古の大号令から1869年の戊辰戦争終結までの間に、近代国家になるための改革と旧幕府勢力と新政府勢力の戦争、すべてひっくるめたものをいいます。
ここでは、明治維新についてくわしく説明します。
戊辰戦争~旧幕府勢力と新政府勢力の衝突~
明治維新のはじまりは、一般的には江戸幕府から朝廷へ政権が返上され、王政復古の大号令によって明治新政府が樹立されたときだといわれています。
大政奉還によって政権を預かっていた江戸幕府が朝廷(天皇)へ政権を返したうえに、王政復古の大号令で新しい政府ができたため、これに反発した旧幕府勢力は新政府勢力と1868年の鳥羽・伏見の戦いで衝突したのです。
この鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府勢力が江戸へ引き上げると、新政府軍も江戸へ向かいます。たくさんのひとが生活をしている江戸城下でぶつかりそうになりましたが、旧幕府勢力の勝海舟と新政府勢力の西郷隆盛が会談をしたことで、江戸城無血開城が実現しました。
ですが、江戸でも新政府勢力に対抗するために彰義隊が結成され、上野の山に立てこもり戦っています。それから、東北地方各地でいくつもの戦争が起こりました。なかでも、江戸幕府への忠誠心が強かった会津藩(福島)では、とくに大きな武力衝突となりました。これを会津戦争といいますが、会津藩は多くの犠牲者を出して敗北します。
会津戦争に敗れた旧幕府勢力は、北海道の箱館にある五稜郭という要塞に立てこもります。この箱館戦争で新政府軍の激しい攻撃にさらされた旧幕府軍が降伏をしたため、鳥羽・伏見の戦いから続いていた戊辰戦争も終わりをむかえたのでした。
明治新政府~近代国家になるための改革~
明治新政府から1868年3月14日に発表された「五箇条の御誓文」では、たくさんのひとに意見を求めながら政治をして、外国とも付き合っていくことを明治天皇が神様に誓ったものです。
明治新政府が成立するものの、これまでのとおり江戸時代の支配体制によって各地が支配されているのが実情でした。新政府の大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)は、近代国家としての支配体制を整えるため、1869年に版籍奉還という政策をおこないます。
各藩は領民と領地を朝廷に返上しましたが、しばらくのあいだはこれまでのとおり各地の大名たちが知藩事として支配を続けました。1871年の廃藩置県によって、藩を廃止して県を設置し、知藩事にかわって東京、大阪、京都には知事、各県には県令が派遣されることになったのです。
さらに、これまでの身分制度が廃止され、皇族・華族(元公家・元大名)・士族(元武士)・平民が取り入れましたが、皇族以外は平等とされました。このとき、武士という身分がなくなったため、徴兵令によって満20歳以上の男子に身分を問わず兵役の義務を負わせました。
明治時代になって「学制」が取り入れられるようになり、6歳以上の男女が小学校で教育を受けることが義務付けられました。幕府の教育機関から東京大学などもつくられています。
税の制度もこれまでとは大きく変わりました。江戸時代には年貢といって「米」で納められていましたが、明治時代になってからは現金で納めることが決められたのです。
このように富国強兵、つまり外国に負けない強い国家になるためにさまざまな政策が打ち出され、そのひとつとして殖産興業も進められました。例えば、近代的な設備を兼ね備えた、官営模範工場の富岡製糸場での生糸の大量生産があげられるでしょう。
明治政府は北海道に「開拓使」とよばれる役所を設置して、各地からの移住者を中心に開拓がはじまりました。これには、職を失ってしまった元武士である屯田兵も含まれます。また、江戸時代には琉球王国だった現在の沖縄でも、1872年に沖縄藩が設置され、1879年には藩にかわって沖縄県とされ、日本の一部となっていったのです。
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