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奈良時代の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の歴史

奈良時代の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の地理日本史 - 中学受験
奈良時代の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の地理
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奈良時代には政治のきまりごとや人々が守らなければならない法律などをさだめた律令制にもとづいた国づくりがはじまりました。

 

元明天皇が平城京へ都を移した710年から、京都の平安京に遷都する794年までが奈良時代です。そのため、平城京は「奈良の都」ともよばれます。

 

平城京が貴族を中心に華やかな都として繁栄する一方、人々の生活は重税に苦しめられ、飢饉やはやり病にもおびやかされました。このような社会的な不安から、仏教文化が広まったのもこの頃です。

 

ここでは、奈良時代についてわかりやすく説明します。

 

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奈良時代の国づくり~律令国家のはじまり~

 

文武天皇は唐の法律にならって大宝律令を制定しました。「大宝」は制定したときの元号で、「律」は刑罰のきまり、「令」は政治を行うためのきまりのことです。このように、律令というルールにしたがって政治をする国家を律令国家といいます。

 

地方は国郡里制によって「国」「郡」「里」という行政組織に区分されました。平城京から国司が派遣されるとともに、郡司に任命された地方の豪族によって支配が行われる体制が整えられたのです。さらに、九州には大宰府という役所も置かれています。

 

日本で初めての貨幣が発行されたのも飛鳥時代の後期から奈良時代にかけてのことです。最初に発行されたのは「富本銭」という銅銭です。さらに武蔵国(埼玉)で銅が発見されたことをよろこんだ元明天皇によって「和同開珎」も発行されました。

 

こうして、平城京に遷都するまでに、大宝律令によって新たな国のしくみが整えられていったのです。

 

奈良時代の律令国家運営~班田収授法と墾田永年私財法~

 

平城京は日本ではじめて造営された本格的な都です。これまでの藤原京と比較すると、その規模は3倍以上になります。いわゆる碁盤の目となっている「坊条制」によって区画整備がされていて、10~15万人が生活していたといいます。

 

平城京遷都後からも、大宝律令にもとづいて政治がおこなわれましたが、新たな社会システムも取り入れられていきます。そのひとつが班田収授法と墾田永年私財法です。

 

班田収授法では、戸籍に登録されている6歳以上のすべての人に「口分田」が与えられました。国家から人民へ与えられた田畑のことを口分田といいます。口分田は人民が所有しているわけではなく、与えられたひとが亡くなると国家へ返還されるものでした。

 

墾田永年私財法では、開墾した土地を私有することが認められました。班田収授法では人口の増加によって口分田の不足、重税にたえられずに逃げ出してしまうといった問題点があったため、三世一身の法が作られます。三代までなら開墾地の私有を許されるというものでしたが、これでは土地の開墾が思うようにいかなかったため、このきまりが考えられたのです。

 

この墾田永年私財法によって、貴族であったり地方の豪族であったリ、権力を持つひとたちが競うように開墾をするようになりました。このような貴族や寺院の私有地を「荘園」といいます。

 

また、奈良時代になると「租・庸・調」を税として徴収していました。租は収穫された米のこと、調はその土地の特産物のこと、庸は労役のことをいいますが、これは布・米・塩を収めることで免除されるものです。また、九州北部の防衛をする「防人」を命じられることもありました。

 

奈良時代中期になると藤原仲麻呂が養老律令を制定したため、大宝律令は廃止されました。ですが、大宝律令とそれほど内容が変わらず、これまでと同じように政治が行われています。

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