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幕末の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の歴史

幕末の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の地理日本史 - 中学受験
幕末の流れ|コンパクトにまとめた要点 – 小学・中学の地理
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幕末をむかえると、これまで海外との交流を制限していた日本も、ペリー提督に開国を迫られてことで開国を余儀なくされました。

この欧米諸国からの圧力に、たくさんのひとたちが外国の植民地になってしまうのではないか、日本を守るためには弱体化している幕府を倒さなければならないのではないかと危機感を持つようになり尊王攘夷運動がはじめられたのです。

尊王攘夷運動が勢いづき、江戸幕府を滅ぼすことができましたが、幕府に仕えていた武士たちと戊辰戦争という激しい戦争が繰り広げられることになってしまいます。

ここでは、幕末についてわかりやすく説明します。

 

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幕末のはじまりは黒船来航から

いわゆる「幕末」がいつからはじまるのかは、はっきりとした西暦が決められているものではありません。江戸幕府の末期にあたり、一般的には黒船来航あたりから明治政府の成立、あるいは戊辰戦争の終結までといわれています。

当時、最新鋭のアメリカの軍艦は、黒い塗装を施されていたので、それを目にした日本人たちは「黒船」というようになります。この、黒船艦隊が浦賀沖に迫ったのは1853年のことで、鎖国をして限られた国としか交易をしていなかった日本は、アメリカのペリー提督に開国を要求されてあわてふためきました。

このときは、一年後に回答することになって、黒船は引き上げていきました。とはいうものの、幕府ではまったく意見がまとまらず、弱腰の外交と批判されながらアメリカと「日米和親条約を結びました。これによって、下田(静岡)と函館(北海道)の開港と、アメリカ船に食料、水、石炭などを供給することが約束されたのです。

中国大陸が欧米諸国の植民地となっている状況も伝わっており、日本国内ではこのまま幕府が弱腰の外交をしていたら、いつかは日本も植民地となってしまうのではないかと考えるひとたちが増えていました。そのため、開国をして欧米諸国と渡り合っていくべきか、欧米諸国を追い払うべきなのかで意見が真っ二つに割れてしまったのです。

そんなとき、幕府を代表する大老・井伊直弼によって結ばれたのが、日米修好通商条約です。この条約によって、函館(北海道)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港の開港することになるのですが、この条約は日本にとって不平等なものでした。

領事裁判権を認めてしまったことで、外国人が日本国内で犯罪をしても裁くことができませんし、関税自主権がなかったので、輸入されてきた外国のものに税をかけることができずに、日本は海外貿易で利益をあげることができなかったのです。

尊王攘夷派とよばれるようになった開国反対派のひとたちも、大老・井伊直弼によって弾圧されました。これを安政の大獄といいます。ですが、この井伊直弼への反発は根強く、桜田門外の変で暗殺されたのでした。

 

攘夷運動と薩長同盟

尊王攘夷派の活躍が目立つようになってきた頃、江戸幕府は朝廷と親しくして混乱をおさめようと公武合体という政策を打ち出します。尊王攘夷派にとって朝廷と天皇がうやまうべき存在であったからです。ですが、この政策を進めていた老中の安藤信正が水戸浪士たちに襲撃される坂下門外の変が起きてしまいました。

そのすぐあとに、寺田屋事件も起きました。薩摩藩主(鹿児島)島津久光が公武合体に賛同しているのにも関わらず、藩士たちが幕府を攻撃する計画を立てるために京都の寺田屋に集まっていたため、これを知った島津久光が襲撃させたのです。横浜付近で薩摩藩士がイギリス人を殺害した生麦事件も起こっています。

この生麦事件の賠償要求を薩摩藩が拒否してしまったため、薩摩藩とイギリスが戦争をする事態となってしまいました。ですが、この薩英戦争をきっかけに、薩摩藩とイギリスは手を結ぶようになり、薩摩藩は力をつけていくことになったのです。

この頃、朝廷内では長州藩(山口)が力を持っていましたが、八月十八日の政変と呼ばれるクーデターによって、朝廷から追い出されてしまいました。朝廷内の地位を取り戻すために、京都御所の蛤御門付近で長州藩勢力と幕府勢力が激しく戦った禁門の変が起こります。その結果、敗北した長州藩は朝廷と幕府というふたつの勢力を敵にまわすことになり、藩存続の危機に立たされてしまったのです。

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