平安時代では貴族たちによって日本の伝統的な文化が育まれた反面、武士たちが存在感をみせるようになり、戦が増えていった時代でもあります。
平城京が都に定められてから、平安京に遷都するまでのおよそ80年を奈良時代といいます。そして、平安京に都が置かれてから、鎌倉に幕府が開かれるまでのおよそ400年を平安時代とよんでいます。
平安時代前期は藤原氏が政治を主導しますが、後期になると武士である平家が政治の実権を握るようになったのです。
ここでは、平安時代についてわかりやすく説明します。
平安時代の幕開け~藤原氏の時代~
桓武天皇が平安京に都を移したのは794年のことです。現在の京都中心部にあたり、明治時代をむかえる1869年まで、じつに1000年以上も日本の首都となっていました。
平安京に遷都したばかりの頃は、当時は蝦夷とよばれていた東北地方で頻発する反乱をおさえるため、征夷大将軍に任命された坂之上田村麻呂が派遣され、反乱をおさめることに成功しました。
平安時代中期までの政治では、摂政・関白となった藤原氏が権力を強めました。どちらも天皇にかわって政治を代行するポジションですが、天皇が幼かったり、病弱であったりした場合は「摂政」、天皇が成人している男性の場合は「関白」と区別するものです。
この頃、朝廷から特別な地位を授かっていた貴族たちは、自分たちが所有している土地である荘園を拡大し、不輸の権(荘園には納税の義務がない)と不入の権(役人による荘園への立ち入り調査することができる権利)によって、荘園の増加に比例して、朝廷の税収が激減してしまうことが社会問題ともなっていました。
平安時代には、天台宗の開祖である最澄が比叡山に延暦寺を、真言宗の開祖である空海が高野山に金剛峯寺を建て、日本の仏教に大きな変革をもたらしています。
平安時代前期では弘仁・貞観文化がみられます。中国渡航を経験している最澄・空海によって持ち込まれた現地の文化が大きく影響しているものです。
そして、遣唐使が廃止されてからは、日本独特の国風文化が花開きます。貴族の住居に取り入れられた寝殿造という建築様式もこの頃のものです。中央に配置されている寝殿から、両側へコの字に対殿が建てられ、それぞれ長い廊下で囲われた構造となっており、日本風の庭園もみられるようになりました。
ひらがな、かたかなは、それぞれ漢字をもとにして、この時代に使用されるようになったものです。紫式部がひらがなで執筆した源氏物語が有名でしょう。
平安時代に登場する武士たち~平家の時代~
朝廷から地方へ派遣されていた国司たちは、知事であったり市長であったり、地方政治を預かる存在でしたが、赴任しても自身の私腹を肥やすことばかり熱心で、まともに地方をおさめることができませんでした。
そこで地方の豪族たちは、武装集団をつくって朝廷に反乱を起こしました。豪族のもと一致団結したこの集団を武士とよぶようになります。
ここで頭角を現したのが平家一族です。これは桓武天皇の血筋である平家を棟梁(トップ)としてまとまった、西日本を拠点とする一大勢力でした。そして、もうひとつ東日本を中心に大きな力を持つようになっていたのが、清和天皇の血筋である源氏を棟梁とした勢力だったのです。
これまで摂政・関白の地位にあった藤原氏の影響を受けていた政治も、天皇によって執り行われるようになりました。この政治を院政といいます。
1158年の保元の乱では、元天皇である崇徳上皇と今の天皇である後白河天皇が激突します。平清盛と源頼朝が加勢した後白河天皇が勝利をつかみますが、平清盛よりも褒賞が少なかったことに不満を持った源頼朝が反乱を起こしたのです。これを平治の乱といいます。
後白河天皇と親しくなった平清盛は、武士としてははじめて、朝廷でも高い地位にあたる太政大臣になりました。さらに、高倉天皇に娘の徳子を嫁がせ、誕生したこどもが安徳天皇として即位すると、その外祖父として絶対的な権力を持つようになったのです。
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